空はこんなに青いのに(その1)

 2011年4月3日撮影。

 「自主避難」地域にあたる、福島県南相馬市の夜の森公園。



 地震の影響か、石碑や像が崩れ落ちてた。


 この日、県発表では南相馬市の放射線量は約0、8マイクロシーベルト毎時。遊んでいる子供などいない。福島市に比べると半分未満の水準ではあるけれども。


 「自主避難」地域への入り口。さらに10キロ先は「避難」地域。

今はただ祈ることしかできない

 1年くらい前、福島第1原発3号機を見学した。あのサイコロのような四角い建屋の中は、窓がないから薄暗くて、計器とかケーブルとか作業指示板とか分厚い扉とか、予想に反してけっこうアナログだった。京極夏彦の「魍魎の匣」という作品に出てくる、美馬坂近代医学研究所という建物の描写を思い出し、原発が題材なのかなと考えた。いずれにせよ、そのとき、私は、人間の技術という奴は凄いなぁと、素直に感嘆していた。当時から、今に至るまで、仕事に使っているパソコンの壁紙は、この3号機、4号機が並んだ写真である。晴れた日で、青い空に、きっちりとした四角い水色の立方体が並んでいた。今はもう、崩れ落ちた。

 会社の偉い人から「君はもういったん休め」と言われた。「半月以上、異常な状態の中で働いているから、大丈夫そうに見えても疲労は蓄積してるはずだ」と。福島には戻してもらえない感触。もともと4月1日付けで東京に戻る内々示が出ていて、先週末には引越しも終えているはずだった。このゴタゴタで引越し業者と連絡がつかない。トラックが確保でき次第、荷物を出して、しばらく休みを取って、そのまま東京勤務となる方向になった。4月の上旬か中旬か。

 こういう事態だから、落ち着くまでは残らざるを得ないし、メドが付くまでは見届けたいと思っていたのに、こんな段階で戦線離脱なのかと、正直、落胆した。心を半分、福島に置いて逃げるような感じで、東京に行っても何も手につかないんじゃないかと思った。 

 いろいろ思案して、だけど、はらをくくった。何の巡り会わせか、この原発事故の最初も、事故の前も知っている、そう多くはいない人間の1人になってしまった。いったん福島を出ても、この問題から逃げられることはないだろう。向き合うしかない。目の前に起きていることを、記録にとどめよう。あらためて、しっかりと勉強しよう。これからどうなるのか、どうすべきなのか、答えを探そう。

 「俺はあの歴史に残る大事件に立ちあったんだ」とか深く考えずに自慢できる性格なら、どんなにか楽だろう。先を思うと、憂鬱で憂鬱で仕方がない。悪い方か良い方か、どちらに転ぶにせよ、これから待っているものは、何十年も続くであろう、責任問題、補償、被爆の実態と追跡、風評に中傷・・・。視野を広げれば、電力というインフラをどう再構築するか、社会は経済は産業は文明はどう変わるのか、余りにも重過ぎるテーマ。心して、心して挑まないと、心が折れる。

 とりあえず目先がどうなるのか、本当に分からない。

 最悪のケースを考えると、やっぱり原発を制御できなくなって、東電も国も福島県も現場を撤退する。50キロだか80キロだかに避難区域が広がる。脱出しようとする人たち、意地でも残る人たち、大混乱になる。そして、放射性物質による汚染は広く、深く、長く、それこそ東日本はダメになる。

 楽観的に考えると、原発をなんとか冷やせるようになって、空気も水も土も、放射線量は下がり続ける。しばらくは汚染は残るだろう。それでも、広島や長崎、水俣のように、いずれ、農林水産漁業は再開できるようになる。神戸のように、経済もある程度は復興できる。

 ただただ願うのは、ひとまずは、できるだけ早く事態が収束してくれますようにと。現場で、文字通り、死力を尽くして原発に立ち向かっている人たちが、どうか無事に、任務を果たしてくれますようにと。今はただ祈ることしかできない。

福島市、震災一週間後

 福島市。自宅の近くに「年中無休」をうたうケーキ屋さんがあって、確かに正月とかもやっていて、休んでいるのを見たことがない。震災から6日目の夕方、たまたま店のそばを通ったら、灯りがついていて、ショーケースにケーキまで並んでいたから、ついつい中に入って、チョコレートケーキを買った。「いまね、このへん断水してるけれど、ケーキなんて作れるんですか」。「そのへんで給水やってますから。そうした水をもらってなんとかやってます」。地震の日も、その翌日も、営業したっていう。「看板に偽りなし」というのは、こういうことだなぁって思った。

 何百年に一度の大地震と言う。しかも、福島では、かつてない原発事故というものまでセットになっている。これくらいの非日常の中にいると、けっこう、人の本性が見えてくる。上司は「どうせ数日中にM7クラスの余震が来るんだ。そしたら原発も止めを刺される。ここの事務所も看板だけになる」とブツブツ、逃げる算段ばかり考えている。俺はもう、この人の目を見て会話することは二度とない。

 仮にも、今このときも、現場で命をかけて被害の拡大を食い止めようという人々がいて、そこから離れた場所でも復興に向けたありとあらゆることのために不眠不休に近い状態で働いている人々がいて、各地の避難所では着の身着のまま寒さに震える人々がいて、1万人を軽く超えるだろう亡くなった人々がいて・・・。記者として、そうした中にいるのであれば、少なくとも、できうる限り、その場所にいて、情報を発信し残すことが、最低限の責務でありプライドであると思う。

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 いろいろと心配くださってありがとうござます。家族ともども無事です。私は福島に残り、妻子は実家に戻りました。4月に東京へ異動予定でしたが、こういう状況なので、GWくらいまで伸びそうな見通しです。

みちのくドライブ(山形・酒田)


 福島にはあと1年もいないので、できるかぎり近辺を周っておきたいと思うこのごろ。1人きりだったので、とりあえず山形・米沢にでも行ってみようかと思った土曜の午後。「米沢→山形→仙台→福島」のコースを念頭に置いていたけれど、気がついたら新潟やら秋田県まで足を伸ばしていた。途中で引き返してこれず、けっきょく山形・酒田で宿を取る。着替えもコンタクトの洗浄液も携帯の充電器も持たないまま、思いつきのまま山形県の広さを実感した1泊ドライブ。


<福島→米沢>

 とりあえず福島市内から国道13号を通って米沢市へ。道中、6年後に開通するという東北中央自動車道の建設現場が見える。写真撮っておけばよかった。米沢市に着いたのが16時ごろ。ひところは大河ドラマ「天地人」で話題になったけれど、別に名所旧跡にあまり興味ない。夕飯には時間があるし、コンビニで山形新聞でも買って地元の喫茶店で時間でもつぶそうかと思ったら、夕方とは言え地元紙を売ってなかった。かわりに「玉縄」というのが売っていた。

 コメの収穫と関係あるのかと思ったけれど、店員に聞いてみると「このへんは雪が多いから。雪囲いに使うんです」。なるほど、雪国ならではだなぁ。


<米沢→酒田>
 米沢にいた時はまだ、おとなしく山形市経由で帰宅しようという考えもあった。ぶらぶら車を走らせていると、国道113号にぶちあたる。「まっすぐ西へ行くと日本海に着く」。・・・行ってみるか。途中、小国町という場所を通るが、正直、ホントに何もなさそうな山間の集落だった。このへんから新潟ナンバーのトラックも混じる。片側一斜線の山道。既に外は暗い。山道の途中、道路わきに設置された気温表示計は「9℃」。車から出ると息が白い。

 日本海沿い、新潟県の村上市まで来る。午後7時ごろ。帰るに帰れない。国道7号を北上して翌日に高速道路で帰ることにする。酒田市を目指した。海沿いをひた走る。交通量は少ないわりに、異様に立派な道路。山形にそんな力ある政治家いたっけかと思いながら、ようやくの思いで酒田市に到着。宿泊先を探して電話をかけるも、第一候補の東急インは「このたび撤退しました」という自動音声。4件目でようやく入れた。素泊まり4500円のビジネスホテル。

 荷物を置いて、夕飯だ。宿の近くにあった飲み屋に入る。6〜8人くらいが座れるカウンターと小さな座敷の店。左隣の関には50歳代くらいの背広着たおじさん。右隣には40歳代くらいの夫婦。壁には映画「おくりびと」のポスター。店のママがエキストラで出演したとか。イナダなどの刺身の盛り合わせ、ソイの煮付け、酒は「初孫」。あと「油揚げ」。酒田では、東京でいう「厚揚げ」を「油揚げ」と言う。衣の中の豆腐がもっちりしてうまい。隣のおじさんに日持ちする有名な土産はないかと聞いたら、「トビウオのダシ」を勧められた。あとで奥さんに電話して、それでいいかと聞いたら却下された。翌日、地元の百貨店で菓子を買うことになる。

 目が覚めて。漁港で魚を食べようと思ったけれど、それほど店の選択肢はなかった。昨晩の店にいたおじさんには、「朝7時から9時半までに行けば、500円台の定食が食べられる。あら汁がうまい」とか説明してもらったけれど、起きられず、昼に行ったら、目当ての店にはすさまじい行列。1時間20分待ちですと店員が言う。それでも仕方ないと並んでいたけれど、40分ぐらい経った後で聞いてみると「もうほとんどのメニューは終わっている」と聞いて、嫌気が差す。少し離れた、小さな店に転戦。すぐに座席に通され、5分で料理が出てきた。800円の日替わり刺身丼。味はまぁ、正直、こんなもんだろうなぁというところ。


<酒田→秋田県境→酒田→山形→福島>

 せっかくなので秋田県の県境までと7号を北上していると、左手には風車。

 写真じゃ伝わりにくいが、突然にょきっと出てきて威圧感がある。あとで調べてみると、ここは遊佐町という場所で、風車は現在建設中のもの。まだまだ増えるらしい。南に隣接する酒田市内でも、同じように風力発電の建設計画があったが、「景観を損なう」という地元の反対で頓挫している。

 再び酒田に引き返し、無料化実験中の山形道で帰宅の途につく。一車線の高速道路は、のんびり走る1台が居ると、すぐつっかえる。途中、工事中で20分くらい立ち往生になったりして、ますますいらいらする。道中のパーキングエリアには、「無料化になってどう感じますか」とアンケートを取る調査員がいた。


<おまけ @福島>

 福島に帰ったのは18時過ぎ。疲れた。途中にあった「半田屋」で飯にする。

 うちの子供も、こんな感じに育ってほしいです。

なすべきことをなせ

 出張で福島県会津若松市を訪れたときのこと。昼ごはんを食べようとたまたま入った喫茶店の中、7、8人は座れそうな大きな楕円形のテーブルの真ん中に、メニューと一緒にB5サイズくらいのノートが置いてあった。表紙に「何でも自由に書いてください」というようなのが記されていて、めくってみると「高校生から憧れの店だったけど、今日初めて来ました」「とってもおいしかったです」とか何故かドラえもんの絵とか色々書かれてるのに紛れて、とても気になる文章を見つけた。
 確か書き出しは「私は旅人。流転の末、ここに辿り着いた」。こんな感じ。3ページ分くらい、びっしり。要約すると、「工事現場とか色々な仕事を経験してきた。自分は進学校の優等生だった。だけどあるとき、母親が工事現場で働く人を見て、『あなたはあんな汚い仕事に就かなくてすむから良かった』と言ったのが、納得いかなかった。学校の先生も『君達は選ばれた人間だ』と言う。どうして『汚い仕事』があるんだろうって悩んだ末、敷かれたレールを外れて、その仕事をやることにした。『汚い仕事』ばかりやってきた。どうして世界は不公平なんだろうか。どうして世の中はヒエラルキーがあるようにできているんだろうか。おかしい」

*****

 東北新幹線に乗ると、座席の前に機内誌が置いてあって、伊集院静という作家のエッセーが載っている。仙台に縁がある人で、東北での知名度は高い。数ヶ月前に読んだものが印象的だった。田植えを見ると母親が「感謝しなくちゃねえ」と口癖のように言っていたことを思い起こす、という内容。自分達は農作業をしない。代わりに食べ物を作ってもらっている。だから感謝しなくちゃいけない−−。当たり前のことだけど、そうした素朴な気持ちが自然と口に出る人柄が素敵だ。
 30年生きてきて、最も心を揺さぶられた歌は何かと尋ねられたら、迷わず美輪明宏の「ヨイトマケの唄」とこたえる。家で1人でいるときに、ユーチューブでヨイトマケの唄を視くことがある。(本当はDVDを買いたいのだけど、店で売ってるのに出くわしたことがない)。聴くたびに泣き、正真正銘号泣することもある。

 子供の頃に 小学校で
 ヨイトマケの子供 きたない子供と
 いじめぬかれて はやされて
 くやし涙に くれながら
 泣いて帰った 道すがら
 母ちゃんの働く とこを見た
 母ちゃんの働く とこを見た

 何で泣くのかって、それは、人が「きたない」と言おうが見下そうが、母ちゃんは家族を支えるため、「身を粉にする」という言葉そのままに、働く。それを目の当たりにして、子供は感じ取る、感謝する、そうした心の流れに揺さぶられるから。

*****

 理想論を語ろう。生計を立てるため、世の中には様々なすべがある。すべてにやりがいや満足があるとは逆立ちしても言えない。たとえば死刑執行のボタンを押す人が、ソープ嬢が、高利貸しが、胸を張って自分の生業を語れるとは正直思えない。自分が望んだ職に就けなかったり、働いても働いても将来の見通しが立たなかったり、何らかの障害があったり、世界はそう単純でもない。
 それでも、人は皆、そのときそのとき、なすべきことがあると思う。不平不満に埋め尽くされる前に、自ら果たすべき役割はあると思う。狭い意味での仕事人に限らず、主婦も子供もおじいちゃんも。そして誰に対しても、あなたのなすことは世の中にとって必要なことなんですと言いたい。誰もが自分がなすべきことをなして、お互いに尊重できるなら、世界はもっと素敵になると思うのだけど。

君の目に世界は

 日が暮れるまで選挙カーから叫び声が飛んでいた。衆院選。「戦後初めての本格的な政権交代になる」らしい。いろいろと、何かしらは、変わるだろう。ただ、「まず、政権交代」とか「責任力」とかいった言葉ばかり目に付く中で、どこに向かって進んで行こうとしてるのか、いまひとつ分からない。様々な部分で行き詰まりが感じられるこの時代に、生まれてくる子供たちは、はたして幸せだろうか。

 つい先日、男の子が産まれた。妻のお腹から出てきた数十分後、腕に抱いた。ずっしり重い。はっきりとした黒目が、本能なのか好奇心なのか、きょろきょろと動く。その眼に、この世界はどう映っただろうか。この先、どんなものを見るんだろうか。その眼差しがいつか失望や無気力のものに変わらないように、少しでも真っ当な世の中であるために、やれることをやらねばならないと思った。