「あたりまえ」の有難さ

 3月11日。妻が「テレビを付けたくない」と言っていた。どこを見ても震災の話で、当日を思い出してしまうと。1年という節目だ。振り返りは大切だ。それでも、被災した人々のなかには、「騒がないでほしい」と思う人もいたかもしれない。マスコミはほとんど、そういう報道をしない。

 去年1年間で、3回、泣いた。

 1回目。3月12日。原発が爆発した日。ほぼ徹夜で迎えた夜。「被爆者」がいるという情報が伝わる。愕然とするしかなくて、へたり込んだ。広島で小学校教育を受けた身としては、原爆の酷さは知っているつもりだ。あの災厄を経験した日本人が、同じ過ちを繰り返してしまった。「もう休め」と会社の指示を受けて家に帰る道すがら、自転車を引きずりながら声を出して泣いた。

 2回目。4月中旬。勤務地が東京に変わる。職場でNHKの午後7時のニュースを見ていた。被災した人に取材した映像が流れていた。内容はあまりよく憶えていない。津波に襲われた場所だったか、放射線にさらされた土地だったか、いずれにせよ、そこで暮らす人たちの言葉を拾ったリポートだった。震災前だったら「今年の収穫はどうですか」みたいな、平和で面白くもないやり取りだったろうに、地元の人の、ぽつり、ぽつりと話す言葉の重さに耐えられなかった。
 松岡正剛という人が、「日々報道される被災地の光景と被災者の言葉は、その片言隻句さえドストエフスキーなのである」(http://1000ya.isis.ne.jp/1407.html)と喝破したけれど、まったく同意する。ただただ映像を見ながら涙した。

 3回目。年末。喫茶店で茶をすすりながら新聞を読んでいた。何気なく目を留めた12月18日の日経新聞の俳句評、2011年の秀作。選者は黒田杏子氏。

 「さくらさくらさくらさくら万の死者」

 ぎょっと。ぎょっとしたけど、涙したのはこの句じゃあなかった。

 「見る人もなき夜の森のさくらかな」

 福島の浜通り原発からそう遠くない場所に、夜の森という名の土地がある。地元では桜の名所として知られるけれど、東京やほかの地域の人はほとんど知らないだろう。自分も2年半福島市に住んだけれど、夜の森へは桜が終わった季節に1回通りかかったくらいに過ぎない。

 そんな田舎に、今年も桜が咲く。震災前は特段注目されることもなく、どこにでもあるような暮らしが営まれていただろう。しかし震災を経て、この土地から「あたりまえ」の生活は奪われた。不条理と言うしかない。気づくと涙がこぼれていた。

 ただただ、「あたりまえ」の日常があることの尊さをかみしめる。「あたりまえ」の暮らしの有難さをかみしめる。できるかぎり多くの人が、「あたりまえ」に生きられる世の中でなければならないと強く思う。