おとうしゃん

 先週、女の子が誕生し、2児の父になった。震災だの原発爆発だの色々あったけれど、無事に生まれてくれてほっとしている。出産のためしばらく前から奥さんと長男は里帰り中。週末は会いにいけるけれど、平日は電話でやり取り。

 1歳10ヶ月となった長男は成長著しい。電話越しに「は〜い」「バイバイ」などの言葉を発する。「おとうしゃん」と呼んだりする。こんな俺が父親として慕われるだなんて、恐ろしさと喜びと非現実感の入り混じった何とも言えない気持ちになる。

 10代後半から20代にかけて、「何のために生きるんだろう」と何度も何度も考えて、答えが出ることはなかった。今は、「この子達の未来が、少しでも良くあるように」というのが正解なんだろうと思いつつある。父親としても大人としても。

空はこんなに青いのに(その1)

 2011年4月3日撮影。

 「自主避難」地域にあたる、福島県南相馬市の夜の森公園。



 地震の影響か、石碑や像が崩れ落ちてた。


 この日、県発表では南相馬市の放射線量は約0、8マイクロシーベルト毎時。遊んでいる子供などいない。福島市に比べると半分未満の水準ではあるけれども。


 「自主避難」地域への入り口。さらに10キロ先は「避難」地域。

今はただ祈ることしかできない

 1年くらい前、福島第1原発3号機を見学した。あのサイコロのような四角い建屋の中は、窓がないから薄暗くて、計器とかケーブルとか作業指示板とか分厚い扉とか、予想に反してけっこうアナログだった。京極夏彦の「魍魎の匣」という作品に出てくる、美馬坂近代医学研究所という建物の描写を思い出し、原発が題材なのかなと考えた。いずれにせよ、そのとき、私は、人間の技術という奴は凄いなぁと、素直に感嘆していた。当時から、今に至るまで、仕事に使っているパソコンの壁紙は、この3号機、4号機が並んだ写真である。晴れた日で、青い空に、きっちりとした四角い水色の立方体が並んでいた。今はもう、崩れ落ちた。

 会社の偉い人から「君はもういったん休め」と言われた。「半月以上、異常な状態の中で働いているから、大丈夫そうに見えても疲労は蓄積してるはずだ」と。福島には戻してもらえない感触。もともと4月1日付けで東京に戻る内々示が出ていて、先週末には引越しも終えているはずだった。このゴタゴタで引越し業者と連絡がつかない。トラックが確保でき次第、荷物を出して、しばらく休みを取って、そのまま東京勤務となる方向になった。4月の上旬か中旬か。

 こういう事態だから、落ち着くまでは残らざるを得ないし、メドが付くまでは見届けたいと思っていたのに、こんな段階で戦線離脱なのかと、正直、落胆した。心を半分、福島に置いて逃げるような感じで、東京に行っても何も手につかないんじゃないかと思った。 

 いろいろ思案して、だけど、はらをくくった。何の巡り会わせか、この原発事故の最初も、事故の前も知っている、そう多くはいない人間の1人になってしまった。いったん福島を出ても、この問題から逃げられることはないだろう。向き合うしかない。目の前に起きていることを、記録にとどめよう。あらためて、しっかりと勉強しよう。これからどうなるのか、どうすべきなのか、答えを探そう。

 「俺はあの歴史に残る大事件に立ちあったんだ」とか深く考えずに自慢できる性格なら、どんなにか楽だろう。先を思うと、憂鬱で憂鬱で仕方がない。悪い方か良い方か、どちらに転ぶにせよ、これから待っているものは、何十年も続くであろう、責任問題、補償、被爆の実態と追跡、風評に中傷・・・。視野を広げれば、電力というインフラをどう再構築するか、社会は経済は産業は文明はどう変わるのか、余りにも重過ぎるテーマ。心して、心して挑まないと、心が折れる。

 とりあえず目先がどうなるのか、本当に分からない。

 最悪のケースを考えると、やっぱり原発を制御できなくなって、東電も国も福島県も現場を撤退する。50キロだか80キロだかに避難区域が広がる。脱出しようとする人たち、意地でも残る人たち、大混乱になる。そして、放射性物質による汚染は広く、深く、長く、それこそ東日本はダメになる。

 楽観的に考えると、原発をなんとか冷やせるようになって、空気も水も土も、放射線量は下がり続ける。しばらくは汚染は残るだろう。それでも、広島や長崎、水俣のように、いずれ、農林水産漁業は再開できるようになる。神戸のように、経済もある程度は復興できる。

 ただただ願うのは、ひとまずは、できるだけ早く事態が収束してくれますようにと。現場で、文字通り、死力を尽くして原発に立ち向かっている人たちが、どうか無事に、任務を果たしてくれますようにと。今はただ祈ることしかできない。

福島市、震災一週間後

 福島市。自宅の近くに「年中無休」をうたうケーキ屋さんがあって、確かに正月とかもやっていて、休んでいるのを見たことがない。震災から6日目の夕方、たまたま店のそばを通ったら、灯りがついていて、ショーケースにケーキまで並んでいたから、ついつい中に入って、チョコレートケーキを買った。「いまね、このへん断水してるけれど、ケーキなんて作れるんですか」。「そのへんで給水やってますから。そうした水をもらってなんとかやってます」。地震の日も、その翌日も、営業したっていう。「看板に偽りなし」というのは、こういうことだなぁって思った。

 何百年に一度の大地震と言う。しかも、福島では、かつてない原発事故というものまでセットになっている。これくらいの非日常の中にいると、けっこう、人の本性が見えてくる。上司は「どうせ数日中にM7クラスの余震が来るんだ。そしたら原発も止めを刺される。ここの事務所も看板だけになる」とブツブツ、逃げる算段ばかり考えている。俺はもう、この人の目を見て会話することは二度とない。

 仮にも、今このときも、現場で命をかけて被害の拡大を食い止めようという人々がいて、そこから離れた場所でも復興に向けたありとあらゆることのために不眠不休に近い状態で働いている人々がいて、各地の避難所では着の身着のまま寒さに震える人々がいて、1万人を軽く超えるだろう亡くなった人々がいて・・・。記者として、そうした中にいるのであれば、少なくとも、できうる限り、その場所にいて、情報を発信し残すことが、最低限の責務でありプライドであると思う。

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 いろいろと心配くださってありがとうござます。家族ともども無事です。私は福島に残り、妻子は実家に戻りました。4月に東京へ異動予定でしたが、こういう状況なので、GWくらいまで伸びそうな見通しです。