転向

 「お呼びがかかるうちが華だぜ」。上司から昔に言われたこの言葉に、ずっと呪縛されていたと思う。

 

  なにか1つ仕事をやりきると、また別の仕事を1つ任されて、その積み重ねで信頼され評価される。それはそうだ。でも、いまさら、活躍したいとか名前を売りたいとか思うことは正直あまりない。自分が仕事を受ける分、若い後輩の機会を奪ってるんじゃないかとすら思う。

 

 その日のうちに終えなきゃならない仕事が終わらないから、夜遅くか翌日早朝になってやり終える。次の日、またその日のうちに終えなきゃならない仕事が終わらないから、夜遅くか翌日早朝になってやり終える…。そんな自転車操業が何カ月も続いて、仕事は雑になるしミスも出るし、なによりじっくり時間かけて取り組まなきゃならないことに手をつけられない。結果、大事なとこで成果を出せなくて責任取らされるのは自分だ。

 

 なにをもって適正な仕事量とするかは難しいけど、キャバはずっと超え続けている。「お呼びがかかるうちが華だから」と思ってやってきたけど、限度がある。哀しいかな、最近は自分から余計な仕事を提案しないようにしようと思うようになった。だって、黙っていても仕事は増える。だから深夜や早朝の時間を費やす。何でもかんでも仕事を振られて、良くも悪くも「便利な歯車」になってる感じが最近強くしていた。

 

 読み終えていない新聞をいつも職場の机の下に置いていて、その積まれた高さが忙しさのバロメーターだった。一番下の層は3月中旬だった。読まずに捨てるのは悔しいので、忙しいなかでも最近は優先的に、そうした古新聞を読み進めていた。先週はベトナム、先々週は沖縄への出張があり、カバンいっぱいに古新聞を詰め込んで、飛行機の中で読んだ。ベトナムホーチミンからの帰り道、空港で何時間も待ち時間があり、ゴミ箱の隣に座って読み終えては捨てて、読み終えては捨てて。そんなこんなで今日、机の下で3月からたまり続けた古新聞の山がなくなった。

 

 新聞を読み終えたら、あらためて中国語の勉強をしようと決めていた。古新聞を読むために最近多めに割いていた時間を、中国語に使う。仕事はメリハリをつけて、誰がやっても同じような結果の仕事は労力かけず、自分がやりたいか大事だと思う仕事を絞って力を入れる。仕事はやるけと、自分への投資はやっぱり必要だから、なんとか時間を捻出しよう。土日に仕事をすることは原則、やめて、家族と過ごそう。たまには早く家に帰ろう。

 

 古新聞の山が消えた職場の机の下を眺めながら、そんなことを考えた。

ワクワク感を今一度

 仕事の現場に復帰して2ヶ月半、ふと思う。…なんか、ワクワクしない。

 

 以前の担当は数年間、たまたまだけど、世界を変えてやろうってマジに考えている人たちが色々仕掛けるのを追いかけていたから、忙しかったし大変だったけど、退屈に思うようなことはなかった。


 今の担当はそのころより、もう少し忙しくて、別にそれは仕方ないとあきらめているけれど、なんとなく、自分は退屈に感じているような、気がする。いや、退屈と言ったら失礼きわまりないし、自分の努力不足も否めないし、だから、少なくとも現在、自分はあまりワクワクしていない、と言うくらいが適切だろうか。


 考えてみれば、特に頭も使わず真っ直ぐに追いかけているだけで、野心的な色々な取り組みに迫れたのは、それはとても幸せなことだったのかもしれない。


「あなたは世の中をどう変えて行きたいと思っているんですか」と、普通の偉い人に何気なく聞いたらはっきりした答えがなくてがっかりしたことがある。普通じゃない人をメインに追いかけてたから、どこか麻痺していた。そんな質問をする自分自身、答えを持っていないし何も行動してもいないのに。


 とりあえず、やり方を変えないとたぶんキツい。もともと自分がいまの仕事に就くのを望んだ理由は、世の中がどうなっていくのか未来を知りたいからだったと思い起こす。


 いまの自分に与えられた担当の中で、世の中を変えようという面白い人を探そう。会いたい人に会いに行こう。工夫できる余地はまだまだある。 

「かのか」の思い出

 自宅に焼酎を常備している。「かのか」という1.8リットル紙パック入りの高くない酒だ。缶ビールだけでは満足できないときに、ロックで1、2杯飲む。

 妻と結婚する前のこと。彼女の実家に行った何回目かの夜、お父さんが「飲みますか」と言って、この焼酎を注いでくれた。「案外飲みやすいもんでしょ」と言う通り、すっきり飲めた。以来、自宅で飲む焼酎は基本的に「かのか」である。
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 その後、私たちは結婚し2人の子供が産まれる。義父は最初は赤ちゃんを抱くのはおっかなびっくりで、「俺はいいよ」と見ていることが多かった。それでも上の子が2歳くらいになると一緒に自転車に乗って近所をブラブラすることが増えた。「この子はほんとに賢いなあ」「将来確実に美人になるよ」。ぶっきらぼうなところもあった義父は、孫を前にするとすっかりおじいさんの顔をするようになっていた。

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 今年10月。60代半ばで、その義父は逝った。肝臓がんだった。発覚したのは8月で、既に末期だった。なんとか治療できないかといろいろあたってみたけれど、手遅れだった。病院に家族で見舞いに行ったとき、言葉少なに孫たちをじっと見ていた。最期は実家で迎えた。逝く数時間前、どこまで意識がはっきりしていたかわからないが、何度か孫の名前を呼んだ。
 
 「それは誰しも通る、当たり前のことなんだよ」。 葬儀が終わってしばらくして、自分の実家に帰っていたとき、私のの祖母は、しみじみと言った。人はいつか身内の死に直面する。80歳を超え、人の生き死にを数多く見てきた彼女の言葉は、確かにその通りで、なぐさめようとしてくれる意味があったろう。だけど、あまりに早過ぎた。もっともっと、孫たちが育っていくさまを見届けていってほしかった。
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  「かのか」は今も家に常備してあり、ちびちびと飲んでいる。いつか自分の子どもたちが結婚相手を連れてきたとき、「案外飲みやすいもんだろう」と言って勧めたい。そのとき義父は、そばにいて喜んでくれるだろう。

見知らぬことを見知れ

 例えばいま、アフリカあたりで1人の子どもが死んだとしても、それは世界史の教科書の中で幾千幾万の人が死んだのと同じように、自分には関係のないことだと、ずっと考えてきた。そう、自分の家族親族友人知人ならともかく、日本という国の中の話ですらないなら、なおさら自分には関係ない。だって、仮に今から、その死んだ1人の子どものことを知ったところで、自分に何ができようか。何もできないなら、関係ないのだ。という、考えてみるまでもなく、論理的にはおかしい。

 ともあれ、そういう考えの持ち主であるので、わざわざ、そう、わざわざ、普通に暮らしていれば接点などないような貧困や紛争の場所まで出向いていったり、震災の現場にボランティアにいったり、赤い羽根募金とかに寄付をしたりする人の話を聞いては、いったいぜんたいどのような動機からそうした振る舞いができるのだろかと不思議に思ったりもした。

 世界はとにかく広い。70億人とかいう人間が居るらしい。関心の対象を犬猫はじめ生き物全般に広げるとするなら、もはやきりが無い。カミサマだって、生きとし生けるものすべての幸せは放棄している。と思う。

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 物心ついたころから、そのように考えてきたのに、最近少し変わってきた。東日本大震災を経験したことがきっかけなのかどうかはよくわからない。ともあれ、無関心は罪であろうと。知る手段があるのならば、知ろうとしないことは恥であろうと。世界のありとあらゆることを知るのは無理でも、初めから知ろうともしないで閉じた姿勢を取るのは情けないことだろうと。

 というように考え直していたところ、中島みゆきの「顔のない街の中で」という歌に出会う。「見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも 失われても泣かないだろう 見知らぬ人のことならば (中略) ならば見知れ 見知らぬ人の命を 思い知るまで見知れ」。あぁ、そうか。ぜんぶすでにこの歌で語られていた。

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 1人で、すべてを見知ろうとするのは、どだい無理な話だけれども、それぞれが、これまでよりも少しだけ外にまなざしを向けたのならば、あきらめとともに在る様々な不幸は一つ一つ解消されるかもしれない。世界は少しずつ幸せになるかもしれない。

  ちょっとでも、いまからでも、開いてみようかと、このごろ思う。それで劇的に何かが変わることはなくても、いつかどこかで小さな実を結ぶこともあるかもしれない。

「あたりまえ」の有難さ

 3月11日。妻が「テレビを付けたくない」と言っていた。どこを見ても震災の話で、当日を思い出してしまうと。1年という節目だ。振り返りは大切だ。それでも、被災した人々のなかには、「騒がないでほしい」と思う人もいたかもしれない。マスコミはほとんど、そういう報道をしない。

 去年1年間で、3回、泣いた。

 1回目。3月12日。原発が爆発した日。ほぼ徹夜で迎えた夜。「被爆者」がいるという情報が伝わる。愕然とするしかなくて、へたり込んだ。広島で小学校教育を受けた身としては、原爆の酷さは知っているつもりだ。あの災厄を経験した日本人が、同じ過ちを繰り返してしまった。「もう休め」と会社の指示を受けて家に帰る道すがら、自転車を引きずりながら声を出して泣いた。

 2回目。4月中旬。勤務地が東京に変わる。職場でNHKの午後7時のニュースを見ていた。被災した人に取材した映像が流れていた。内容はあまりよく憶えていない。津波に襲われた場所だったか、放射線にさらされた土地だったか、いずれにせよ、そこで暮らす人たちの言葉を拾ったリポートだった。震災前だったら「今年の収穫はどうですか」みたいな、平和で面白くもないやり取りだったろうに、地元の人の、ぽつり、ぽつりと話す言葉の重さに耐えられなかった。
 松岡正剛という人が、「日々報道される被災地の光景と被災者の言葉は、その片言隻句さえドストエフスキーなのである」(http://1000ya.isis.ne.jp/1407.html)と喝破したけれど、まったく同意する。ただただ映像を見ながら涙した。

 3回目。年末。喫茶店で茶をすすりながら新聞を読んでいた。何気なく目を留めた12月18日の日経新聞の俳句評、2011年の秀作。選者は黒田杏子氏。

 「さくらさくらさくらさくら万の死者」

 ぎょっと。ぎょっとしたけど、涙したのはこの句じゃあなかった。

 「見る人もなき夜の森のさくらかな」

 福島の浜通り原発からそう遠くない場所に、夜の森という名の土地がある。地元では桜の名所として知られるけれど、東京やほかの地域の人はほとんど知らないだろう。自分も2年半福島市に住んだけれど、夜の森へは桜が終わった季節に1回通りかかったくらいに過ぎない。

 そんな田舎に、今年も桜が咲く。震災前は特段注目されることもなく、どこにでもあるような暮らしが営まれていただろう。しかし震災を経て、この土地から「あたりまえ」の生活は奪われた。不条理と言うしかない。気づくと涙がこぼれていた。

 ただただ、「あたりまえ」の日常があることの尊さをかみしめる。「あたりまえ」の暮らしの有難さをかみしめる。できるかぎり多くの人が、「あたりまえ」に生きられる世の中でなければならないと強く思う。

仏像を掘り出すかのように

 「2行で1分」。もしかしたら「1行で1分」だったかもしれない。新人のころ、原稿を書くのにかかる時間の目安として聞いた。1つのテーマについて120行で書くことがままある。1行が10文字ちょっと。原稿用紙だと3枚分。目安にしたがうなら1〜2時間で書き上げることになる。これがいまだにできない。締め切りが迫ってものすごく集中できたら可能なときはある。ただしだいたいのところ、自分が聞いてきた話をどうまとめたものか悩み、構成が決まってからもどんな表現が良いのか悩み、だらだらと何時間もかかって夜が更けてゆく。毎回そんな感じ。
 10年近く勤めてきて、書くためのスキルが上がったという実感はある。何が変わったのかというと、昔は原稿を書き上げてみたところで「これで大丈夫だろうか」と不安で、電話が鳴るたび、びくびくしていた。実際、「こんなんじゃ成立しないだろ」と何回何年怒られてきたことか。いまはまぁ、どんな仕事を降られようとも、とにかく最低限満たすべき条件はわかるし、そう文句を言われないだけの最低限のものに仕上げることはできる。それでも、原稿を書くのにかかる時間は、新人時代と比べて短くなったということはない。
 原稿を書き上げるまでには3つのステップがある。1、何を書くか決める。2、誰に話を聞くか決める。3、まとめる。実際に執筆に入る前の1と2が実に肝心だ。新人のころ、誰かに聞いた話をもとに書けると思って書いてみると、ほかに必要なファクト(事実)が足りずあとから困るということはしょっちゅうだった。肉じゃがを作りたいのにジャガイモとニンジンしかない。肉がない。慌てて、やっぱりポテトサラダにします、という感じ。
 いまはもう、どんなメニューを作るか、どんな食材が必要か、こうした点の段取りでしくじることはほとんどない。問題はどう料理するのか・・・。
 話を聞いた人の生き方そのものに触れることがあったり、関係各所に良くも悪くも影響を与えたり、そういうことは多い。3の部分、聞いた話をどうまとめるのかは、やっぱり半端な気持ちでは臨めない。パソコンに向かい、メモを眺め、うんうん考え、キーボードを叩き・・・。あのひとが言ったこの台詞はこんなニュアンスだろう、この話はこの部分が肝だな、などと1つ1つ文字にしていく。
 けっきょくのところ、自分が感じて理解した以上のことは書けないから、原稿を書くという作業は、話を聞いた人たちと向き合うのと同時に、自分の内面に向き合う過程でもある。木の塊から仏像を掘り出すようなイメージを持っている。
 長々と書いてきたけれど、そういうふうにして仕上がった「作品」は、じゃあ満足いく出来映えなのかというと、そういうわけでもない。俺がこれを書いたんだと胸を張れるようなものは、1年間で何本あることか。
 どこまでいっても研鑽が必要なのだと思う。

時計の針は戻らない

 先日、熱海に行く用事があって新幹線に乗ったら、隣に座った男がタバコを吸い始めたのでびっくりした。おいおいなんて非常識な奴なんだと思ったけれど、座席に吸殻入れが付いているのに気づく。そうか、喫煙車って、まだあったんだ。ほんの5年ほどまえ、大阪に住んでいたころは、上京するたび必ず「のぞみ」の喫煙車に乗っていたのに、いつのまにか、電車の中では煙草を吸えないことが当たり前と思うようになっていた。世の中の流れである。

 この春、およそ3年ぶりに東京に戻ってきたら、職場が新しいビルに変わっていた。社内にいるときは、社員証を携帯しないといけない。社員証無しにはゲートやロックされたドアを通れないし、自分用のパソコンも使えない。セキュリティーは向上しただろう。だけど、会社の外に出づらくなった。社外の人がこちらのオフィスにふらっと足を運んでくれることも多かったのだけど、必ず受付を通り、応接室を予約しなければならなくなって、当然のようにあまり来てもらえなくなった。これも世の中の流れである。

 すくすくと育つ我が子を見ながら、いまは四六時中、親の目に届くところにいるけれど、いずれは友達と遊んだり、1人で行動したりする時間は増えるのかなあと思う。自分が子どもだったころ、親に言われたのは「日が暮れるまでに帰ってきなさい」くらいだったと記憶している。いま、同じように子どもを放っておけるのかどうか。GPSとかの利器に頼るのは良いのか悪いのか。「ドラえもん」によく出てくる、土管のある空き地で子どもが遊ぶ風景は、いまもあるのか。

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 たかだか30代前半の自分が指摘するのもおこがましいけれど、たとえば10年前と今とでは、世の中は決定的に変わっていると感じる。どんどん洗練されてシステマチックになって、小さく小さくまとまっていく方向にある。ITが普及したことの影響も大きいだろうけれど、成長、成熟、衰退という流れに乗っているととらえるほうが、個人的にはしっくりくる。

 懐古の念のようなものがある。いまよりも、昔は、もっと生々しく活気があった。おおらかだった。熱量が下がったから、効率良くスマートにやらなければならない時代になったのだろうか。30代の自分はそう思うのだけど、高齢の人の感じ方はどんなものだろうか。

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 最近、カジノとか飛ばしとか企業の不祥事を耳にすることが多くて、やれガバナンスが大事なんだと言われる。ごもっともだと思いながらも、違和感を否めない。ダメな企業がダメだった分だけ相応の制裁を受けるのは当然だけど、昔のようにおおざっぱでいい加減でもかまわないじゃないかという気も正直ある。

 ガバナンスとはごく簡単に言うと、ヒトをコントロールするためのシステムを整えることだ。ヒトの行動に一定の制限をかける。もちろん、誤った行動や決断を防ぐことが目的だ。しかし、まったくもって個人的な考えだけど、システムが充実すればするほど、ヒトの活力は殺がれるとしか思えない。